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「社会の認識」期末レポート2011-1

「大学」と「社会」の接続は可能か

教育学部 2年 手島 由貴

 


 

1.       求められる大学生活への能動性

 現代の大学生の普段の「学問」へのモチベーションは必ずしも高いとは言い切れない。むしろ何の宛てもなく惰性で日々を消化しているケースが大多数なのではないだろうか。

 私の周囲でもその傾向が強く、先日も友人の一人から相談を持ちかけられた。「なんか毎日が面白くない。課題もめんどくさいし。何したいのかも微妙。どうにかうまい方法はないかな?」そもそも個人の特性や欲求によって学部の選択をしたわけであり、そうでないにしろ少なくとも「何か」は学びたいと願うから大学に進学したのだから、本来ならば「何をしたいか」などと迷うことはないはずだ。しかし、大学生の現状としてはこのような悩みを抱える学生が非常に多いのである。加えて、とりあえず若しくはなんとなく大学へ進学したという学生も少なくはないかもしれない。けれども、だからこそ就職活動で行き詰るのではないだろうか。官民の別に関わらず面接は必ず経験することだが、必ずといっていいほど問われることがある。それは「大学生活で打ち込んだことは何か」という問いである。少なくとも講義やゼミに積極的に取り組んだ場合はそこで得られた知見を述べることは出来るが、何の目的意識も持たずに講義に出席しているだけでは、そこから得るものはない。

つまり、あるテーマを設定した上で大学での学修に臨むという姿勢が必要なのではなかろうか。この場合のテーマとは、例えば臨床心理学を極めるとか法哲学の知識を増やすという具体的な目標のことである。そのテーマを少なくとも一つは設定してその課題の克服のための期間に大学生活を充てるのだ。テーマ設定に悩むのであれば例えば自分の学部パンフレットで開講されているゼミを調べてみることが有益であるし、学部の外にテーマを求めても良いだろう。どうしても見つけられないならば将来的に就きたい職業のための資格取得をテーマとしても良いだろう。そうやって各自がテーマ設定を行ったうえで学問に取り組めば目的合理性に適うし、社会で求められる「応用力」を養成することにもつながるはずである。したがって卒業後の社会の中で学問を生かすための大学生活の過ごし方について、この仮説に基づいて考察していきたい。

 

2.       現在の「学問」をめぐる状況

 上記の仮説を考察するにあたり、まずは現在の大学における「学問」の現状に触れておかなければならない。ウェーバーはその著書『職業としての学問』(岩波文庫 尾高邦雄 訳)において伝統型の「学問」から近代型の「学問」へのシフトを指摘している。

ここでいう「伝統型」とは「自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。」(ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫 P29~P30)すなわち、日々進歩を遂げる世界において、研究の成果をあげることに効用の最大を見出す姿勢のことである。そして「学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する」(同 P30)のだ。特筆すべきはこの場合の大学の教員は「多くのばあいたんに形式的な試験にもとづいてその学部の教授団の選考および承認を経て、ある大学に就職する。そして無給で、すなわち学生からの聴講料を受けとるだけで。講義をおこなう。」(同 P10)。ここからは利害を超えた純粋な研究としての学問への姿勢がうかがい知ることができる。

 一方で「近代型」の学問というのは教員の立場から見た場合、「大切な若い時代をずっと大学の仕事に追われている。」(同 P13)という状況のことである。ウェーバーの例を出せば「独文科では、正教授はゲーテについて一週三時間やそこらこうぎすればそれでいいのであるが、これに反して若い助手のばあいでは、毎週十二時間の講義で、ドイツ語の初歩を教え込むかたわら。ウーラントくらいまでの詩人たちについての講義でも受けもたせられればいいほうである。」。すなわち教員は「研究者」ではなく「先生」の意味合いが強いわけだ。「伝統型」にくらべた雇用環境は「近代型」の方が良いため、教員側からすれば教授会の意に従うことは仕方がないのだ。研究の成果より講義の出来を求められるのだ。そして講義の出来というのも、学術的に評価が高いかどうかではなくて、受講者が多いかどうかである。教員側の事情や姿勢というものは講義を受ける学生側の学問に対する取り組みに大きく影響する。よってこのような類型は非常に興味深い。

 すると現在の大学における学問はウェーバーの提示した「近代型」の学問であるといえる。全ての講義でとは言い切れないまでも、多くの講義は何か管理的な雰囲気の下、教員も学生も閉塞感に満ちている気がしてならない。講義に携わる者たちが皆、いかにして単位を確保するか、あるいは評価するかという点に気を取られすぎている感がある。もちろん北大でも近年GPA制度の導入が始まり、成績評価を全く度外視することはできないものの、「ただ単位が取れればいい」あるいは「単位の取りやすい講義を受けたい」ということだけでは何の能力も磨かれないのではないだろうか。苦手な科目が必修単位となっている場合に「試験に通ればいい。なんとか単位が取れればそれでいい」と考えるならばやむをえないかもしれないが、その考えを全てに持ち込むことは、あまりに短絡的で危険である。ただ「なんとなく」で講義を受けても知的好奇心は膨らまないし、そこから得るものは何もない。それを4年も繰り返すことに意味はあるのだろうか。

 

3.「学問」の本質

 現状の学問は先述したとおりだが、では本来の「学問」はどうあるべきなのだろうか。ここではプラトンが『国家』の中で述べた哲学者の条件について例示しながら考察していきたい。

まずプラトンは哲学を学ぶ前提条件として自然的素質をあげている。そして「生来の自然的素質において記憶がよく、ものわかりがよく、度量が大きく、優雅で、心理と正義と勇気と節制とを愛して、それらと同属のものでないかぎり、けっしてじゅうぶんに修めることのできないような仕事」(プラトン『国家』第6巻 岩波、2章末 487A~B)とまとめている。また「つねに恒常不変のあり方を保つものに触れることのできる人々のこと」(同 484B)であり、「さまざまに変転する雑多な事物の中にさまよう」(同 484B)ことではないとしている。

もちろん、生来の素質に学問的素養の根源を求めている点には反対意見もあり得るし、この時代の哲学が現代の「学問」と必ずしも一致しないという点は忘れてはならない。しかし、その中で現代にも通じるものはないだろうか。私は恒常不変のありかたを探求するという部分に「学問」の本質はあると考える。不変の真理を追究していく姿勢、一つの課題を克服するための試行錯誤の営みこそ、「学問」の本来のすがたと言えるのではないだろうか。少なくともこの点においては、現在の大学生には欠けていると言える意識であり、「学問」へ取り組む上でも「社会」という実践の中で力を発揮するためにも、求められている要素と言えるだろう。

 

4.「社会」の実情

 2008年のリーマンショック以降の世界経済は低迷し、日本経済もその例外ではなく企業の経営面は言うに及ばず、学卒者の就職戦線にも暗い影を落としている。先日、学部の基礎演習でヤングハローワーク札幌を訪問した際の担当者の説明からもそれを見て取ることができた。現状としては新規学卒者だけでなく、在学中に内定を得ることができなかった既卒への支援強化も図っていかなければならないようだ。それほど経済の冷え込みは深刻である。

 しかし、こういった学卒後すぐに迎える社会の「入り口」ばかりに気を取られてもいられないのだ。「きわめて不安定な就業状態にあって、両親のいう「まともな仕事」を望みながらも「とりあえず」つなぎに働いている若者」(熊沢誠『若者が働くとき』ミネルヴァ書房 P3)このような形態の求職者も労働市場には少なからず存在するのである。すなわち学卒後にひとまず就職したのはいいけれども、純粋に希望通りの職種に就けているわけではなく、事実上の就職活動は継続中ということである。また就いた職場が自らの思惑と大きく隔たりがあるために再就職を考えるケースも少なくない。

 『若者が働くとき』の中にはもう一つ興味深い記述がある。「高望みさえしなければ、新規学卒者にはかなり潤沢な求人があって、若者たちはなんとか就職できたのです。ついでにいうと、この就職可能性が高校、大学を問わず学生の究極のまじめさを保障していました。」(同 P74)つまり先ほど述べた社会の雇用情勢の不安が、学生生活に打ち込む熱意を奪うことになっているという指摘である。著者の熊沢氏は大学で教鞭を取る人物だけにこの指摘には重みがある。

 

5.「学問」は「社会」に活かせるのか

 これまで大学における「学問」と「社会」について、それぞれを分離した上でその特性と現状を述べてきたが、ここで冒頭の仮説をもう一度思い出して欲しい。「あるテーマを設定した上で大学での学修に臨む姿勢が必要だ」という仮説である。

それぞれの学部の具体的な専門知識(例えばミクロ経済学における余剰分析やピグー的課税に関する知識など)を直接的に活かせるかは別として、テーマを設定してその解決のために努力を積み重ねるというプロセスは「社会」において必ず有益に作用するはずだ。前述したとおり、現在の経済は抱える課題が非常に多く、またその一つ一つは困難を極めている。ここでこれらの課題を大学生活において設定したテーマと置き換えて考えることにしよう。そうすると学生のうちからテーマ設定に慣れている者は、どうやって試行錯誤すればよいかというプロセスの部分も理解しているから、多少の回り道をしてでも「結論」に達することができる。しかし、テーマ設定から結論を導くことに慣れていない者はどうやってアプローチすれば良いかすら分からず、成す術がないだろう。このアプローチでつまずけば、仕事に対するモチベーションを失くし、離職してしまうという事態も起こりうる。じっくりと一つの課題に取り組むことは「社会」の中では不可欠であるし、その結果を求められる。そういったことに慣れるためにも学生時代から、テーマ設定から答えを導くという図式を徹底しておく必要がある。

テーマ設定から試行錯誤を繰り返しながら結論を導くという思考は、学問の本質とも相異ない論理性の高いものと言える。私が思うにこの論理的な思考を媒介にすれば「学問」と「社会」の接続は十分に可能と言える。

 

[参考文献]

・ウェーバー「職業としての学問」 岩波文庫 

・ウェーバー「社会学の基礎概念」 角川文庫

・プラトン「国家」第6巻 岩波文庫 

・熊沢誠 「若者が働くとき」ミネルヴァ書房

・ロールズ「正議論」紀伊国屋書店

・ルソー「学問芸術論」 岩波文庫

・ルソー「エミール」上・中・下  岩波文庫

・アーレント「人間の条件」 ちくま文庫

・中野光「教育思想史」 有斐閣新書

・エラスムス「痴愚神礼賛」 岩波文庫

・コメニウス「大教授学」 明治図書

・ロック「教育に関する考察」 岩波文庫

・金子忠史「変換期のアメリカ教育―学校編―」 有信堂

・市原純「困難を抱える若者たちへ支援を届けるキャリア教育」『教育』59巻10号

・アマルティア・セン「不平等の再検討」 岩波書店

・銀林浩也編「遠山啓エッセンス[第2巻] 水道方式」 日本評論社

・橋本努「自由の社会学」 NTT出版

・山田詠美「学問」 新潮社

・橋本努/矢野善郎編「日本マックス・ウェーバー論争「プロ倫」読解の現在」ナカニシヤ出版

・長尾真「情報を読む力、学問する心」 ミネルヴァ書房